Canary Chronicle~カナリアクロニクル~

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映画や本のレビューや雑感、創作活動や好きなもののことなど。トリッチのあたまの中のよしなしごとを綴ります。

【雑感】剥製への妄執について。【幻想博物館】

大きな声じゃ言えませんが、剥製が好きです

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映画レビューで『バタフライルーム』2012年 について触れたので、標本とか剥製への執着について語ってみたくなった。

あんまりお外で大きな声で言えないアレですが、標本や剥製がめちゃくちゃ好きです。

好きになったきっかけは、幼少時に繰り返し茨城県植物園の、鳥獣センターに通ったことだと思う。

鳥獣センター/茨城県植物園

公式サイトには以下のようにある。

傷ついたり弱ったりして保護された野生の鳥や動物を、元気になったら自然に帰すことを目的につくられた施設です。
さらに、鳥獣に対する知識を深め、自然を愛する豊かな心を育てていくための活動をしています。

 つまり、いたって真面目に自然保護に取り組んでいる施設だ。

わたしと妹は、祖父に何度もここに連れてきてもらっていた。
わたしも妹も、動物が大好きな子どもだったから、ここに連れてくればよろこぶだろうと、祖父は思ったのだろう。
実際、わたしはここが大好きだった。

少しこわいと思いながら、こわいが故に更に惹き付けられるものがあったように思う。

上述したように、鳥獣センターは動物園というよりも、傷付いたり病気になったりしている野生動物を保護し、治療した上で自然に帰すことを目的としている施設だった。そのため、症状の重いものは展示されておらず、それらを保護しているエリアは立入禁止区域となっていた。

「これより先、ニューカッスル病などの鳥獣エリアに付き、立ち入りを禁止します」

というような立て看板などがあり、どういう病気か知らぬまま、ニューカッスル病という言葉から受ける禍々しい雰囲気に、勝手に震え上がったりしていたものだった。
そして同時に、その禍々しさに、密かに心躍るものも感じていたのだった。

そして、鳥獣センターには「剥製館」があった。

いまでもあるのかどうかは分からないが、当時は小さな白い建物が、鳥獣センターの順路上にあって、わたしはここが好きでたまらなかった。
母なんかは気味悪がって、決して中に入ろうとしなかったが、わたしはここに立ち寄るために、繰り返し鳥獣センターに連れて行ってくれとねだっていたと言って過言ではない。

中に入ると、先ず無数の鳥たちの剥製に出迎えられた。

扱われているのは県に生息する動物だから、上野の博物館のように極彩色の極楽鳥などがいる訳ではないが、キジやヤマドリなど、それなりにときめくような鳥たちが、無言で佇んでいた。水鳥は、湖の書き割りがあるショーケースにまとめられていたし、山の鳥は山のジオラマのようになったショーケースの中にいた。

一方、大きなトンビなどは、独立してガラスケースに入れられていた。
わたしはここの大きなトンビが大好きだった。日本にこんなに大きな猛禽がいるなんて!と思っていた。
もちろん当時は、幼すぎて猛禽という言葉は知らなかったが、要するに「肉食で、動物を襲って食べる鳥」というくらいに思っていた。

大人になったいま、あのトンビのことを思い出すと、奇妙な気持ちになる。
そもそも、トンビはそれほど大きな鳥ではない。
わたしは、トンビと思ってイヌワシか何かの剥製を見ていたのだろうか?と思う。
もしくは、当時の自分が小さすぎて、トンビがものすごく大きく見えていたか。とても不思議に思う。

鳥たちのエリアをすぎると、哺乳類のエリアになるのだが、こちらは圧巻だった。

迫力が全然ちがう。
大きなイノシシはウリ坊を数匹連れたかたちで展示されていた。イノシシの恐ろしさに対して、ウリ坊の何と可憐なことだったか。いつも見るたびに、ウリ坊を抱きしめたいと思っていた。イノシシ親子の後ろには、ウリ坊よりも更に小さいイノシシの赤ん坊のホルマリン漬けもあって、そちらをこわごわと覗き込むのも大好きだった。

そして、リス。
松ぼっくりを両手で持っている彼のことが、わたしはもう好きでたまらず、持って帰りたいと何度も祖父に訴えた。尻尾がふさふさで、耳の毛が長く真っ直ぐに立ったリスの剥製を、わたしは毎日そばに置いておきたくてたまらなかったのだ。

剥製たちの、無残さがとても好きだ。

それらは時を止められたようでいて、そうではない。
埃を被り、黴の匂いを放ちながら、ゆっくりと古びていく。
死骸でありながら死骸でないもの。
或いは冒涜された死骸。
土に帰ることすら許されず、輪廻や循環の輪から強制的に外された気の毒な動物たちは、偏愛されたのち置き忘れられた人形のようだ。

その無残さゆえ、わたしは、剥製を愛するのだと思う。
命が宿っていた頃と変わらぬ姿で、けれど決定的に何かが変わってしまった剥製たちは、生きている動物たちとはちがった生々しさで、わたしを夢中にさせるのだった。

そしてそれは、例えばヤマドリであってヤマドリでない。 わたしが剥製を通して見ているものは、生き物としての実際のヤマドリではなく、わたしの中の、わたしにとってのヤマドリなのだ。
多分に魔物的な、魔術的な。わたしにとっての、わたしだけのヤマドリ。
ヤマドリの剥製を見るとき、わたしはわたしのヤマドリを再構築しているのだと思う。 剥製を見ているうちに、わたしのヤマドリが、わたし自身を突き破り、現れ出て、ばたついたり猛ったりするのを感じる。
わたしはわたしのヤマドリを、可愛がることも出来るし、一緒に遊ぶことも出来るし、わたし自身がヤマドリそのものとなって飛ぶことだって出来る。
それは思わず恥じ入るほどの快楽だ。
恥じつつ決して捨てることのない、古い日記帳のような快楽だ。

鳥獣センターに出入りしなくなってから、わたしは随分ぬいぐるみやら樹脂のフィギュアやらも集めたが、剥製の代替でしかなかったと思う。

生きている動物にそっくりの姿で、生きていないもの。

妄想の導火線として、わたしはそれらがとてもとても必要だった。

いまは、愛らしいだけのぬいぐるみは、ほとんど処分してしまった。

生々しくて、恐ろしくて、少し悲劇の雰囲気があるもの。そういうものが、好きでたまらないようであります。


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