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映画や本のレビューや雑感、創作活動や好きなもののことなど。トリッチのあたまの中のよしなしごとを綴ります。

【映画レビュー】『裸のランチ』1991年

裸のランチ』1991年

『裸のランチ』1991年

裸のランチ』1991年:あらすじ

イリアム・リー(リー・ザ・エージェント)は、作家志望で重度の麻薬中毒者でしたが、いまはクスリからは足を洗って害虫駆除で生計を立てています。

しかし妻ジョーンは、リーの仕事用の殺虫剤をドラッグ代わりに使い始めて、自堕落な生活に戻りかけています。

ある日リーは警察から、殺虫剤を麻薬として売買している容疑をかけられ、取り調べを受けます。そこへ突然現れる、巨大なゴキブリの幻覚……ゴキブリは「妻のジョーンは敵側のエージェントだから殺せ」とリーに命じます。

驚愕し、ゴキブリを靴で叩き潰して自宅へ逃げ帰るリー。するとジョーンはリーの友人とお戯れの最中でした。リーはジョーンに「ウィリアム・テルごっこをしよう」を持ちかけ、彼女を射殺してしまいます。

『裸のランチ』1991年

友人の手引きで海外逃亡することにしたリーは「インターゾーン」へ突入……そこで更に奇怪な幻覚に悩まされるようになります……

『裸のランチ』1991年

 

『裸のランチ』1991年

 

『裸のランチ』1991年

 

【レビュー※ネタバレなし】往復ビンタのあとに訪れた突然の解放【裸のランチ

人によってはめちゃくちゃ退屈な映画と思います。
お話の筋を追いにくい上に淡々としているし、グロいし。

けれどもわたくし、率直に言ってめちゃくちゃ興奮しています。

観終わってひと晩明け、正午を過ぎ、全くやる気の起こらないけだるい午後に差し掛かったところですが、悪い薬のような興奮は鎮まるどころか、大型の魚の体内に蓄積される水銀のように、純度と濃度を増していくようです。

わたしがめちゃくちゃハマった理由のひとつは、たぶん元ネタであるバロウズがくっっっっっっっそ大好きであること。バロウズ補正ですね。何かスゲーいいような気がしてしまう。

それでいて、バロウズの同名小説の映画化というよりも、監督の「ボクの中のバロウズ」って感じなのもよかった。うんうんそうよね!と、監督とバロウズ談義したくなるようなワクワク感があります。

でも一番の理由はそこではなく。

主人公のリーが、そうじゃないふりをしながら、書くことにめちゃくちゃ執着していること、そしてリーが書くことによって目指そうとしている境地、この部分に非常に揺さぶられたのでした。

全ての芸術表現の出発点は「オレがオレが」です。
みんな自分がどんな人間で、どんなことを感じながら、どんなふうに苦悶しつつも前進し続けているのかを、みてほしいと思っている。

つまり自己表現ですね。

全てのジャンルの芸術の、99%が「オレの物語」。
いいですね。わたしも大好きですし、わたしが常に語りたいのも自分自身の域を出ていないことを自覚しています。

でもたまに、ありとあらゆるもの、そして自分自身すらからも、自由になりたい人間や表現がある。

俳句も、そういう表現のひとつです。
俳句では自分を語ってはいけない。対象に自分を重ねてはいけない。いや、重ねてもいいんだけども、あからさまにやるのは「ダサい」とされて嘲笑されます。

俳句では、二歩も三歩も、対象からも自分からもスッと距離を置いて、写生をするような表現をします。やっていることは写生に似ているけれど、厳密にいうとそれは写生ではない。眼の前の古池とかカエルとかを大きく飛び越えて、夜の暗さや静けさ、更にその後ろに無限に広がる宇宙に達しようとする試みな訳です。

ダリもそうですね。彼は1日のうちのちがう時間帯の日光を、ひとつの画面に描き込むことで、時間を歪めようとした。

逆行不可・侵犯不可と思われる時間すら歪めて、時間からすら解き放たれて自由になりたかった。彼の試みはそういうものだったんじゃないかと思っています。

俳句ともダリともアプローチのし方がちがっているけれど、たぶんバロウズも自由になりたい人でした。
書くことで、遠くへ遠くへ、自分でも何処へ向かっているのか分からないけれど、うんと遠くへと飛び去って逃げ切りたかった。

そのことをきちんと汲み取った監督が、バロウズの、一見グロくて残酷で暴力的で、救いがなくて悪趣味全開な表現の奥にある、キュッとしたさみしさや、甘い悲しみまでも、十分に再現して見せてくれたので、わたしはめちゃくちゃ満足しました。

わたしは、人間の領域を遥かに超えて、自由になろうとする人間や表現が好きです。そういうものとの邂逅を歓び、同時に恐れ、のたうち回る以上の快楽がありましょうか。

今日のわたしは昨日のわたしより、明らかに自由になりました。
何故なら昨夜『裸のランチ』を観たから。

いぬの皿にあけるドッグフードの色彩とカラカラと皿の上で鳴る音、種類の分からない小鳥の笛のような声、足の下の線路のつなぎ目を通過する感触、隣の男のため息、同僚が高速でキーボードを打つ音。眼にする全ての色彩、耳にする全ての音が、一層鮮やかに、明瞭になり、「書くことがない」なんてもう信じられない。そこいら中に溢れ返っていることに気付いてしまいました。

「スパイは必ず裏切るし反逆者も裏切る。それらと作家との違いは作家は唯一それを記録することだ」

インターゾーンを抜けて、アネクシアに至るための永訣をも乗り越えて。

バロウズとクローネンバーグの往復ビンタのあとに訪れる解放を、是非皆さんも味わってみて下さい!!

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