【あらすじ】『ミレニアム・マンボ 千禧曼波』2001年
これは10年前の話……という女性の独白で、物語が幕を開けます。
ヴィッキーは日々を無為に過ごす女性でした。いつもクラブに入り浸って、仲間たちと飲んだくれ、家では同棲中の彼氏、ハオと喧嘩を繰り返しています。
ヴィッキーは16歳で夜遊びをはじめ、街のチンピラのハオと恋に落ちていました。
ハオは事あるごとに「お前と俺は住む世界がちがう」と繰り返し、ふつうの女子高生だったヴィッキーを妬んでいるかのようでした。
そして卒業試験の朝、ハオが彼女を起こさなかったため、ヴィッキーは高校を卒業することができませんでした。
ハオはヴィッキーに執着し、ヴィッキーはそれを嫌がり、毎日喧嘩していますが、きっぱりと別れることができないでいます。
DJの真似事をするだけで働かないハオのせいで、生活に行き詰まり、ヴィッキーがホステスをして稼いでいますが、こんな状況でもハオはヴィッキーを束縛しようとします。
そんな毎日に嫌気が指していたところで、ヴィッキーが昔クラブで一緒にあそんでいたヤクザ、ガオが、ヴィッキーのバイト先に客として訪れました。ヴィッキーはガオとも付き合いはじめるのですが……。
【レビュー※ネタバレなし】『ミレニアム・マンボ 千禧曼波』2001年
「二人の男のあいだで揺れ動く」描きたいのはそこではない
あらすじらしきもの、一応書いてみましたが、こじつけのようなものです。
本作は、ともだちに説明できるような、明確なあらすじがある映画ではありません。言うなれば、「アンビエント系映画」であり、物語の筋を追ったり、登場人物に共感したりする類の映画ではありません。
本作の説明で「ハオとガオ、二人の男のあいだで揺れ動く」的な文章をよく見かけますが、ちがう気がする。
そんなふうに言うと、まるでヴィッキーが、どちらにも恋情を抱いていて迷っているように聞こえますが、そうではない気がする。
先ず、ハオに関しては、とっくに冷めている。
何も知らない16歳のときには燃え上がったかもしれないけど、今ではハオのズルさ、ウザさを嫌というほど知っているし、彼のせいで高校をちゃんと卒業できなかったので、人生を台無しにされたという苦い気持ちもある。
いい男で一見やさしいガオに対しても、甘やかしてくれるし、家に住まわせてくれるし、ハオを追い払ってくれるから、一緒にいるに過ぎない。
ガオの方でも、恋人とかパートナーとしてヴィッキーを大事にしている訳ではない。
劇中「(ガオはヴィッキーを)パートナーのようにそばに置きたがった」みたいなナレーションもあるけれど、何というか、一人の人間として大事にしている感じではない。「手間のかからないペット」のような雰囲気です。
しつこい元彼を追い払ってやり、「ホステスを辞めたい。けれどできること(仕事)が何もない」というヴィッキーに対して、俺がやってるカフェで働いてみるか。給料高くないけど、みんなそのくらいの月給でまともに暮らしてるよ、とか、親身にアドバイスしてる風を出したりもしてるけど、どうも薄っぺらい。ヴィッキーがごちゃごちゃ言うから、会話に応じているだけ、という雰囲気が漂っています。一見やさしいけどね。
つまり、この映画は、そういう部分を描きたい映画ではない。
一人の女の子が、恋い焦がれたり、生き方を改めようと思って奮闘したり、そういう話ではない。
薄暗がりの中でしか生きられない、何者にもなれない女。そしてそんな彼女を肯定するということ。
この映画は、始終薄暗い。
ヴィッキーがともだちと笑い合うバーやクラブ、Tバックだけを身に着けてお客にサービスをするいかがわしいバイト先。照明を絞った夜更けのアパート、夜明けに戻ってきた男が料理をする台所、夜の高速道路、そして気まぐれに訪れた夕張の雪深い夜道。
ヴィッキーはつまり、薄闇の中でしか生きられない女なんだろうな、と思いました。
夜はたらいて、夜にあそび、明け方頃に寝に帰ってきて、また夜が来たら起き出すタイプの女の子。
そんな女の子が、ともだちと飲んで、テーブルに回ってきた手品師の手品を見て笑いさざめく声や、食器やグラスがぶつかり合ってカチャカチャいう音。
自宅で彼氏と喧嘩をして、苛立ってパチッと音を立ててライターを置くこと。
夜明けに帰ってきた男が料理をする音。
夕張の夜道で、美形の双子の男の子と一緒に、ギュッギュと踏みしめる雪の音。
男に招かれて、ほかにすることもないから訪れてみた、よそ者のような顔をした東京の街。男が現れない新宿のホテルの、窓のすぐ外の規則的な電車の音。
彼女を取り巻く薄闇と、心地のよい音、そして湿度が低くてへんに空っぽな、さみしさとも言えないようなさみしさ、これを描きたくて、この映画は撮られたのではないかなーと思いました。
「ふだんの毎日は、これといって何も起こらない。」
ジャン=フィリップ・トゥーサンの、たぶん『カメラ』だと思うけど、このめちゃくちゃ大好きな書き出しを思い出しました。
わたしたちは、エモーショナルなドラマを常に欲しているけれど、じんせいって、実はそんなに何かが起こる訳でもないし、誰もが何者かになれる訳でもない。
「これは10年前のお話……」というナレーションで始まるこの映画ですが、おそらくヴィッキーは、10年経ってもほとんど生き方を変えていないだろうし、変えることもできなかっただろうな、と思います。
で、「あれは10年前のこと……」って話し出されると、その10年前に、劇的な何かが起こったのではなかろうかと思って、こっちは身構えちゃうけれど、別に何があった訳でもない、なんかちょっと楽しかったし、フワフワさみしかった、というだけのことでも、好きに思い出していいし、そういう何でもない日々の空気感のことを、話したくなったら話せばいいのではないか、と思って、へんな言い方ですが、わたくしは非常に自由な気持ちになりました。
ヴィッキーみたいなしょうもない女の子に対する、作り手の視線が、やさしい。
このやさしい視線が、大きな、包み込むような肯定として伝わってきて、肯定されると、人は自由になれるし、オールオッケー。いいじゃん、ありがとう、これめっちゃ好きだわーと思って、観たあと多幸感に包まれました。
「これは10年前のお話……」って言いながら、自分のことも、ちょっと思い出してみたくなり、やっぱり10年前には特筆すべきことはなくて、でもなんか、毎日たのしいような、さみしいような、フワフワした感じだったなー、でもいいじゃん、と、自分を肯定したくなるような、とても素晴らしい映画でした。
映画っていいねー、自由だね!!
こんなやり方でも、誰かを肯定して、ハグすることができるんだねー!!